第五章 深く優しい闇に抱かれて 5 美優の発表会当日。 圭市と紗耶は客席中段の真ん中に並んで座っていた。 ひと目でステージが端まで見渡せるその特等席は、初めて自分の舞台を見るという紗耶のために、美優があちこちに頼み込んで苦労して取ってくれたのだと聞いた。 この日、圭市にエスコートされて会場に入った紗耶は、先日美優と一緒に買い求めたラベンダー色のスーツを上品に着こなしていた。席の傍らに置いた花束は可憐なピンクのバラで、辺りに微かな甘い芳香を漂わせている。 美優が踊る舞台を食い入るように見ていた紗耶が、ため息混じりに小声で圭市に囁く。 「素晴しいわね」 「君が来ているせいで、今回は特に気合が入っているようだな」 すでに何度も発表会を見に来たことがある圭市が小声で応える。 「あの子のスタイルの良さは、あなた譲りみたいね。すらりと長い手足は舞台に良く映えるわ」 「だが、美優に言わせれば、身長が高すぎるそうだ。168センチの背丈でトゥシューズで立つと180センチを超える。これ以上身長が伸びたら、だれもリフトしてくれなくなると悩んでいるぞ」 それを聞いた彼女が小さく笑う。 娘は自分より10cmも背が高い。紗耶がヒールのある靴を履いて並んで歩いても、目線がほとんど変わらないのだ。 「背丈だけは、私に似てくれても良かったかしら」 「確かに、君くらい華奢な身体ならば抱き上げるのも楽だったな」 それを聞いた紗耶がつと目をそらした。 「そうね、あなたに力で勝てたことは…なかったわね」 急に余所余所しくなった彼女の様子に、圭市は心の中で舌打ちした。 紗耶の中では、まだ自分は18年前にわずか17歳の少女を、無理やりに捻じ伏せた男という印象のままなのだということを忘れていた。 彼女にとって、抱き上げられたことは即ち過去のベッドでの行為を思い出させるということに思い至らなかったのだ。 「あの子は同じ年頃だった君とは随分違う、身体つきも骨格もね。幼稚園の時以来したことはないが、多分今、美優を抱き上げたら私の方が腰を痛めるのではないかと思うよ」 「それはないでしょう」紗耶は苦笑いを浮かべながら答える。 「でもあの子、かなりウェイト・コントロールをしているように見えるわ。一緒に食事をしても、いろいろと我慢しているようだし。もっと好きなものを好きなだけ食べさせてあげたいと思うけど、あの体型を維持するためには仕方がないのよね。あの子の年齢なら、もっと甘いものも食べたいだろうと思うと、何だか見ていて辛いわ」 母親らしい気遣いを見せる紗耶に、何も言えないまま圭市は舞台に視線を戻した。 カーテンコールが終わり、発表会が全て滞りなく終了した後、紗耶は圭市と共に楽屋を訪れた。 まだ衣装を着たままで、化粧も落としていない美優に花束を渡すと、彼女に一緒に写真に納まるよう誘われた。 「ほら、お母様も入って」 圭市は慣れた様子で美優の横に立っていた。 彼は幾度となくこうした場面に立ち会っているのだろうが、初めての紗耶は戸惑いを隠せなかった。 「でも…」 「早く、お母様はこっち側ね」 両親に挟まれた美優が満面の笑みを浮かべる。 その自信に満ちた華やかな表情は、昔の紗耶とよく似た面差しながらまったく異なるものだった。 周囲の大人たちの顔色を窺いながら、常におどおどしていた自分と違い、愛情をたっぷりと与えられて育った美優は、これほどまでに伸びやかで力強く成長していた。 紗耶は、そんな娘の姿を眩しそうに見つめていた。娘を持つ母親としての誇らしさと、ほんの少しだけ羨望の思いを込めて。 「紗耶」 楽屋で美優に労いの言葉を掛けた後、そのまま会場を後にしようとした紗耶は、圭市に呼び止められた。 「これから後、どうする?何か約束でもあるのか?」 「いいえ。今夜は、何も予定を入れていないけど」 「ならば、一緒に食事でもどうかと思って。いろいろと話し合いたいこともあることだから」 「そうね…」 彼女は、躊躇いがちに美優の方を振り返った。 「ならば、あなたも一緒にどう?」 美優はちらりと圭市の顔を見て、父が母親と二人きりになりたいのだと瞬時に悟った。 「ごめんなさい、お母様。これからお友達との打ち上げに誘われているの。でもせっかくだからお二人でゆっくりなさったら?」 「そうなの?残念ね」 「では私たちだけで行くことにしよう。柏木を残して行くから、送ってもらいなさい。遅くならないように家に帰るんだぞ」 「分かってますって。お父様こそ、お戻りにならないのでしたら、早めに連絡を入れて下さいね。でないと、寝ずに待っている房枝さんが待ちくたびれちゃうから」 圭市は、含み笑いをしながらそう切り返す娘を軽く睨みながら、紗耶の腕を取った。 「言われなくても分かっているさ。本当にお前は小姑だな」 「煩いのはお互い様よ。いってらっしゃい、お母様。楽しんでいらしてね」 手を振りながら遠ざかる二人の姿を見送る美優が微笑む。 両親の過去に何があったのか、誰もちゃんと教えてくれなかったが、父親の遠慮がちな言葉と母親の頑なな態度は、何か心に引っかかるものがあった。 確かに二人が離れ離れになってしまった理由が気にならないと言えば嘘になる。しかし、今の美優には、過去の出来事よりも、これからの時間の方がずっと大事なことに思えるのだ。 母が帰国してからというもの、18年もの間彼女を探し続けてきた父にもっとチャンスをあげることはできないのかと、ずっと思ってきた。最初はぴりぴりしていてとてもそんな雰囲気ではなかったが、今では何とか両親が二人でいても気詰まりさは感じなくなった。 娘としては、何とか二人に元の鞘に収まって欲しいと切に願っている。 もちろん、両親の意思が一番大事だし、尊重されるべきだろうが、そういう方向に進むよう、策を講じることは許されてしかるべきだ、と自分の行いを正当化してみる。 例え、多少の嘘はついたとしても。 「頑張れ、お父様」 美優は母から贈られた花束を抱えたままで、小さくガッツポーズをした。 今夜が両親の和解の切欠になるかもしれないという期待に胸を膨らませて。 「美優様」 呼ばれて振り向くと、そこに柏木が立っていた。 「社長に仰せ付かって参りました」 いつもながら隙のない身だしなみで、言葉遣いは腹が立つほど慇懃な男だ。 「ちょうど良かったわ。あなたにも悪事の片棒を担いでもらいたかったの」 「悪事ですか?」 「うーん、厳密には悪いことではないわよ。あなたの今夜のお仕事は、私との打ち上げデート。一緒にご飯を食べに行きましょう。これでお母様に言ったことが嘘でなくなるわ」 確かに美優は、母に『お友達』と打ち上げに行くと言った。しかし、どんなお友達かまでは言わなかったはずだ。 「いいでしょう?」 少し上目遣いに彼を見ながらにっこりと微笑む。 それを見た柏木は諦めを込めた溜息をついた。この顔を見れば、いつも彼は絶対にNOとは言えない。 「お供いたします」 「良かった。すぐに着がえて用意をしてくるから、待っていてね」 美優は、そう言うと更衣室に向かって駆け出す。 その姿を見送る柏木の目に入ったのは、彼女の腕の中で揺れるピンク色のバラだった。 紗耶が美優のために誂えた優しい色合いのバラ 「マイガール」。 それは、母が娘に伝えたかった思いが込められた、可憐なピンクのバラの花束だった。 HOME |